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倉庫の大爆発で乗るべき舟がなくなった歳男は淡路に帰った。久しぶりに会った母こまつの髪に白いものを見た。「二度と母に心配をかけてはいけない」と考えた歳男は船乗りになることをあきらめた。
その頃、歳男の姉むめのの夫である松下幸之助氏は、勤めていた大阪電灯をやめて大阪で事業を始めていた。幸之助氏から誘われた歳男は、母こまつに相談したうえで、大正6年6月、大阪にでてきた。
猪飼野の借家に住んでいた幸之助氏は土間を工場にして改良ソケットを製造しようとしていた。歳男は姉夫婦の家に住み込んで働き始めた。最初に与えられた仕事はコーパルゴムや石粉、石綿などの原料集めだった。買い集めた原料を小さい荷車に乗せて運んだ。まだ小柄だった14歳の歳男にとって坂道を荷車で登る時は楽ではなかった。
ソケットはさっぱり売れなかった。資金も底をついた。姉夫婦の苦労はなみたいていではなかった。しかし幸之助氏はねばり強く、ソケットの改良と研究に没頭していた。「とてもまねのできないことだ」と歳男は子供心に舌を巻いた。
その年が暮れようとする頃、扇風機のスタンドに使う部品(碍盤)の注文が舞い込んだ。姉夫婦と歳男の3人は、来る日も来る日も碍盤造りに励んだ。歳男は材料集めのほか製品磨きも手伝った。碍盤の注文は順調に続き、幸之助氏の独立は軌道に乗った。
翌年の大正7年3月、幸之助氏は念願の電気器具製造・販売に本格的に着手するため、大阪の大開町で「松下電気器具製作所」を創業した。歳男は改めて正式に入所した。同時に仕事も原料練りやポンス押しに昇格した。 |

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